講師よりメッセージ

しゃべるという行為とは、一体どういうことなのだろうか。
しゃべるときには必ず、聞くという行為が伴うはずである。
まったく対象無しに人がしゃべることはない。
一人だろうが、大勢だろうが、直にだろうが、マイクを介してだろうが、
その先には必ず、聴く対象がいる。
とすれば、しゃべる、聴くは、一対の行為なのだ。
しゃべる、という行為は、音源である声帯を震わし、口の中で母音を形成し、
口先で子音を創る。
その音波を鼓膜というアンテナで捕え、その信号は、日本語言語中枢という
ブラックボックスに送られ、瞬時に解析し、理解の分野に届けられ、認識されることになる。
そのブラックボックスとは、日本語文法、語彙を、長年かけて集積してきた、
スーパーコンピュータである。急ごしらえのデジタルコンピュータがかなう相手ではない。
なのに、ナレートするとき、視覚で捕えた文字情報を、
チープなコンピュータを持ち出して音声変換しようと必死になる。
文字の音声変換イコール、ナレーションではない。
そのとき、しゃベるという行為からかけはなれた、
読みモードになっていることに気がつかなければならない。
読むことイコール、ナレーションではないのだ。
読みモードの朗読のなんと退屈なことか。
読みモードのナレーションのなんと難解なことか。
読むという行為と理解は同義語ではない。
そのとき、往々にして単語の羅列が始まる。
人は単語を聞いて理解しようとはしない。
大きなところでは、センテンスの色を把握して、ストーリー展開を探り、
小さなところでは、"節"を聴いて、センテンスの構築を理解する。
読点で区切られた"節"を認識しながら、一回性のしゃべりを、リニアに理解してゆく。
そのとき、その"節"を認識する分野こそが、日本語言語中枢である。
そのスーパーコンピュータは、主語につく格助詞、"が"、"は"に読点がつけば、
それを主語と認識し、読点がつかなければ、"形容詞節"、"副詞節"の中のものだと、
瞬時に分別する。
ワンセンテンスの中で、複数の"が"、"は"に読点がつけば、
言語中枢は混乱モードに陥り、思考停止状態にさえなりかねない。
我々は、日本語におけるネイティブスピーカーである。
日本語言語中枢を介した、インプット行程が聴くということであり、
アウトプット行程が、しゃべるということである。
とすれば、わかりやすく心地よいしゃべりとは、聴くという行為、
つまり日本語言語中枢の機序にかなったものでなくてはならない。
人の言語中枢の、理解における最小単位は"単語"ではなく、
"節"なのだと前にも言った。単語一つ一つ追っかけていたのでは、
人のしゃべりに到底ついてはいけない。
日本人が、英語のネイティブスピーカーについていけないのと同じである。
英語は単語で形成されているのではなく、"節"で構成されている。
一塊の"節"を理解の最小単位として、ヒアリングしているのだ。
英会話スクールで、ネイティブの先生に必ずこういわれる。
『単語で覚えるのではなく、"成句熟語"として捉えるのです』
貧弱なボキャブラリーで、単語ごとに聴こうとすれば、
ネイティブのしゃべりについていくことは到底できない。日本語も例外ではないのだ。
とすれば、喋りが、聴くという行為と一対であるのだから、しゃべりも同じように、
"節"単位を最小としなければ、正確に理解してもらうことは期待できない。
"単語"を"形容詞"を"副詞"を、一生懸命説明しているようなしゃべりは、
"声は聞こえど中身は見えず"になりかねないのだ。
お分かりだろうか。わかりやすいしゃべりとは、読点で区切られた《揺るがぬ"節"》を
明快においてゆくことであり、"読点"とは、そこで区切られた"節"がなんであるかを
認識してもらうために必要な時間なのである。
だとすれば、"一形容詞節""一副詞節""一名詞節"が見つけられた場合、
その中で余計な読点を打たないことだ。
逆に、"節"ごとには、正確に読点を打たなければならない。
これはあくまで原則論であり、心地よい語尾、助詞を置いてゆくことが出来れば、
ワンセンテンスノーブレイクでもかまわない。
読点を打たなくても、正確な"節"の見えるしゃべりであれば、である。
"単語" そのものに意味があるのではなく、"節"がどのようなイメージで語られたかが、
理解を促すのであって、先に述べた、人のしゃべりとは、常に、二元表現であることの
証左ともなろう。
"形容詞節"、"副詞節"、 "名詞節"を見つけることが、
文章読解の第一歩であることの意味がお分かりいただけただろうか。
日本人である以上すべからく、そのスーパーコンピュータを持ち備えている。
それを信じて、日本語言語中枢にかなったしゃべりを身につけようではないか。



