2011年は未曾有の年ともいえる困難の1年でした。
あきらめるか、さらにも増して頑張るかの選択を迫られる年でもありました。
さて2012年は、その忍耐と努力を結実させてゆく年であるとも言えるでしょう。
当ナレーション研究室も、皆様とともに、
その希望の大地に向けて、まい進してゆく所存であります。
本年もどうぞよろしくご贔屓のほど・・・・。
ナレーション研究室講師・徳弘 夏生![]()
『ナレーションのいろはを知りたい方・
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ここ、スタジオ1093ナレーション研究室です。
まったくの初心者から、現役プロの方まで、
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文章の中から、 まず、 格助詞、“が”、“は”、“を”、“に”、を 見つけだそう。
読点が打たれているか打たれるべき、“が”、“は”、“を”、“に”、であることが重要である。
“が”、“は”、の前には、主語である、名詞あるいは名詞節が、
“を”、“に”、の前には、目的語である、名詞あるいは名詞節が、
そう、“が”、“は”、“を”、“に”、の前には、
必ず名詞あるいは名詞節、体言が控えているのだ。
そして、その名詞・名詞節の前には、形容詞が待ち構えている。
初見力を支える読解法とは、まず形容詞を見つけることだと説いてきた。
一見、形容詞に見えないようなものに気づく力を養うことでもある。
見つけた形容詞・形容詞節に余計な読点をはさまない。
それこそが、揺るがぬ節を置いてゆくの所以である。
そこで、次の作業は、形容詞のカウントに入る。
これで、もう文章デッサン、文法デッサンができたも同然。
主語・目的語としての名詞が、固有名詞か、限定名詞か、
あるいは普通名詞かで、形容詞の カウント方法が違ってくる。
普通名詞である場合は、カウントした数の最終形容詞を、
トーンを上げて強調・訴求することになり、
それ以前はマイキー・ イメージング訴求の表現。
固有名詞・限定名詞の場合には、全てがマイキー・ イメージング訴求ということになる。
これで、オクターブ幅の広い、音色豊かな喋りのセッティングが成立するのだ。
音だけで語る一色のしゃべりほど、心に響かないものはない。
耳にではなく、心に届く語りが求められている。

しゃべるという行為とは、一体どういうことなのだろうか。
しゃべるときには必ず、聞くという行為が伴うはずである。
まったく対象無しに人がしゃべることはない。
一人だろうが、大勢だろうが、直にだろうが、マイクを介してだろうが、
その先には必ず、聴く対象がいる。
とすれば、しゃべる、聴くは、一対の行為なのだ。
しゃべる、という行為は、音源である声帯を震わし、口の中で母音を形成し、
口先で子音を創る。
その音波を鼓膜というアンテナで捕え、その信号は、日本語言語中枢という
ブラックボックスに送られ、瞬時に解析し、理解の分野に届けられ、認識されることになる。
そのブラックボックスとは、日本語文法、語彙を、長年かけて集積してきた、
スーパーコンピュータである。急ごしらえのデジタルコンピュータがかなう相手ではない。
なのに、ナレートするとき、視覚で捕えた文字情報を、
チープなコンピュータを持ち出して音声変換しようと必死になる。
文字の音声変換イコール、ナレーションではない。
そのとき、しゃベるという行為からかけはなれた、
読みモードになっていることに気がつかなければならない。
読むことイコール、ナレーションではないのだ。
読みモードの朗読のなんと退屈なことか。
読みモードのナレーションのなんと難解なことか。
読むという行為と理解は同義語ではない。
そのとき、往々にして単語の羅列が始まる。
人は単語を聞いて理解しようとはしない。
大きなところでは、センテンスの色を把握して、ストーリー展開を探り、
小さなところでは、"節"を聴いて、センテンスの構築を理解する。
読点で区切られた"節"を認識しながら、一回性のしゃべりを、リニアに理解してゆく。
そのとき、その"節"を認識する分野こそが、日本語言語中枢である。
そのスーパーコンピュータは、主語につく格助詞、"が"、"は"に読点がつけば、
それを主語と認識し、読点がつかなければ、"形容詞節"、"副詞節"の中のものだと、
瞬時に分別する。
ワンセンテンスの中で、複数の"が"、"は"に読点がつけば、
言語中枢は混乱モードに陥り、思考停止状態にさえなりかねない。
我々は、日本語におけるネイティブスピーカーであると同時に、ネイティブリスナーでもある。
日本語言語中枢を介した、インプット行程が聴くということであり、
アウトプット行程が、しゃべるということである。
とすれば、わかりやすく心地よいしゃべりとは、聴くという行為、
つまり日本語言語中枢の機序にかなったものでなくてはならない。
人の言語中枢の、理解における最小単位は"単語"ではなく、
"節"なのだと前にも言った。単語一つ一つ追っかけていたのでは、
人のしゃべりに到底ついてはいけない。
日本人が、英語のネイティブスピーカーについていけないのと同じである。
英語は単語で形成されているのではなく、"節"で構成されている。
一塊の"節"を理解の最小単位として、ヒアリングしているのだ。
英会話スクールで、ネイティブの先生に必ずこういわれる。
『単語で覚えるのではなく、"成句熟語"として捉えるのです』
貧弱なボキャブラリーで、単語ごとに聴こうとすれば、
ネイティブのしゃべりについていくことは到底できない。日本語も例外ではないのだ。
とすれば、喋りが、聴くという行為と一対であるのだから、しゃべりも同じように、
"節"単位を最小としなければ、正確に理解してもらうことは期待できない。
"単語"を"形容詞"を"副詞"を、一生懸命説明しているようなしゃべりは、
"声は聞こえど中身は見えず"になりかねないのだ。
お分かりだろうか。わかりやすいしゃべりとは、読点で区切られた《揺るがぬ"節"》を
明快においてゆくことであり、"読点"とは、そこで区切られた"節"がなんであるかを
認識してもらうために必要な時間なのである。
だとすれば、"一形容詞節""一副詞節""一名詞節"が見つけられた場合、
その中で余計な読点を打たないことだ。
逆に、"節"ごとには、正確に読点を打たなければならない。
これはあくまで原則論であり、心地よい語尾、助詞を置いてゆくことが出来れば、
ワンセンテンスノーブレイクでもかまわない。
読点を打たなくても、正確な"節"の見えるしゃべりであれば、である。
"単語" そのものに意味があるのではなく、"節"がどのようなイメージで語られたかが、
理解を促すのであって、先に述べた、人のしゃべりとは、常に、二元表現であることの
証左ともなろう。
"形容詞節"、"副詞節"、 "名詞節"を見つけることが、
文章読解の第一歩であることの意味がお分かりいただけただろうか。
日本人である以上すべからく、そのスーパーコンピュータを持ち備えている。
それを信じて、日本語言語中枢にかなったしゃべりを身につけようではないか。
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副詞の定義から入ることにしよう。
副詞には、大きく分けて二つの役割がある。
一つは、述語動詞について強調の役目を果たす。
"副詞は動詞にかかる"、の原点である。
もう一つの副詞の役割に、同じ副詞、ないしは、形容詞を修飾するとある。
例外として、体言にかかるように見える場合もあるが、
とりあえず、"副詞は名詞にかからない"という前提を掲げることにする。
なぜなら、文章読解上、そのことが大きな信号として重要な役割を果たすからである。
一つの例文を挙げてみよう。これは日本文学のある一節である。
『そしてその学校の行きかえりにはいつでもホテルや西洋人の会社などが
並んでいる海岸の通りを通るのでした。』
原文のままで、文章句読点も打たれてはいない。
『そして、その学校の行きかえりには、いつでも、ホテルや西洋人の会社などが
並んでいる、海岸の通りを、通るのでした。』
これは最多級の句読点モデルである。
"いつでも"、という(副詞)の次に、"ホテル"、"西洋人"、"会社"などという、
名詞が並んでいる。
正確に言えば、名詞の羅列で構成された形容詞節なのだが、
"いつでも"が、"並んでいる"にかかっていないだろう事も一目瞭然である。
なぜならこの"並んでいる"は、一見、動詞形にも見えるが、明らかに、
"海岸の通り"の形容詞節を構成している。
とにかく初見だろうが、副詞の次に名詞が控えていたら、
瞬時に疑ってかかる。"副詞は名詞にかからない"のだと・・・・
この場合など、句読点がないために、なだれ込んで読む場合も少なくない。
まさに、これが副詞の倒置法・倒置形なのである。
確認するためには、即、順列にして読んでみればよい。
『ホテルや西洋人の会社などが並んでいる海岸の通りを、いつでも通るのでした。』
これが順列の形である。
作家・ライターが文章を書くとき、倒置法にしてやろうなどと頭で考えながら
展開しているわけではない。自然な形で、まったく無意識の中に倒置法などが
多用されているのであって、とても一般的な作文法であるといえよう。
そう、この副詞の倒置形が見えたら、
副詞を、絶対に名詞につながってしまうような音で読んではいけない。
その副詞が動詞に着地できる音を探りながら、名詞節は別次元の音として
おいて行かなければならない。
結果としては、"いつでも"は、"通るのでした"にかかる最終副詞であるからにして、
高い音で述語動詞にかかり、"ホテルや西洋人の会社などが並んでいる"、は、
限定名詞である"海岸の通り"のイコール修飾になり、
イメージングをもって、マイキーで語られる音で、"いつでも"と、重なりようがない
のである。




