当研究室では、実際の日本語運用上の最新の情報を、常に提供できると、
自負しております。
もし、仕事上、迷ったり困ったりした場合、アクセントのこと、読み方のこと、
どうぞなんなりと、お電話、メールでお尋ねください。
即座にお応えできると思います。
ご遠慮なくどうぞ。
机上の空論のもとでお勉強していても、即戦力にはなりえません。
現場対応力を備えた、本物の語り手を送りだすべく、実際をシミュレートした、
スタジオ・アナブース使用の集中的レッスンがモットーです。
たとえば・・・・・・・・。
![]()
時代を背景に、人の使う言葉は変化してゆきます。
そのようにフレキシブルに考えてゆきたいものですが、
その逆に、守り通してゆかなければならないものもあります。
そう、変わってよいものと、変えてはいけないもの、
使い慣れているからといって、間違いを見逃してはいけません。
“ひとだんらく”も間違い。
“火蓋が切って落とされた”も間違い。
そして当然の流れ、趨勢の中で、
変えなければ取り残されてしまうものもあるのです。
その場合は、変わってよいではなく、
変えなければならないケースかもしれませんね。
では、その顕著な例として、
外来語・カタカナ言葉の変遷に少し触れておきましょう。
その原因としては、インターネットの普及の影響が大きいといえます。
つまりこういうことです。
インターネットの爆発的な普及により、
あっという間に、文化の障壁が取り払われてしまいました。
そして、ソーシャルネットワーク時代の到来、まさにボーダレス環境。
多言語同士の中でも、意思の疎通・交流が求められて来ているのです。
そんな中で、いわゆる日本語英語と呼ばれる類のもの。
一見外来語に見えるようなものでも、英語圏ではまったく通用しない、
日本独自の和製英語が見直されようとする中で、
カタカナ言葉のつづり方、アクセントにまで革命が起きているのです。
いくつかの例を挙げてゆきましょう。
まず身近なものから。
もっとも身近なものとして、携帯電話があります。
この普及の速度は、10年、15年前には想像もつきませんでした。
15年程前には、“モービル機器”と呼ばれていましたが、
それがいつしか、“モバイル機器”に、もしくは“モーバイル”。
そして、会社名までが、“モービル事業部が“モバイル事業部”に。
今、“モービル”と呼ばれるものは、ガソリンスタンドくらい。
これも英語圏の方たちが日本語の中のカタカナ言葉を聞いて、
少しでも正しいイメージングをしてもらうための革命なのです。
つまり、カタカナ語であろうと、出来るだけ正しい、英語の聞こえ方・
アクセントに近づけようとする動きですね。
“イメージ”なども、ずうっと“イメージ”と中高だったものが、
英語発音になぞらえて、今は、“イメージ”と頭高に読んだほうが、
受け入れられやすいようです。
“アドバイス”も“アドバイス”が正しいのです。
これなどは、英語発音が頭高だと勘違いしている方たちが多いようですね。
“リラクゼーション”が、“リラクセーション”と清音になり、
“プレステージ”が“プレスティージ”と、より正確な発音に。
多くの方たちが、そのスペルを“Prestage”と思い込んでいるのです。
正しくは、“Prestige”ですね。大手自動車会社のカタログも、
いつしか“プレステージカー”の文言は、“プレスティージ”に変わっています。
極めつけとしては、“エンターテイメント”が“ン”が付け加えられ、
“エンターテインメント”になり、さらに今では長音が消え、
会社名までもが、“エンタテインメント”に統一されることに。
今までの外来語は、日本人が声に出しやすい音に、
設定されてきたのですが、それでは原語のイメージに重ならない。
カタカナ語を読んだときに、ネイティブな英語圏の方たちに、
少しでも、元のスペリングのイメージに重なってほしい、
という意味での流れなのです。
これは国を挙げての新しい波となっています。
カタカナ語のアクセントに迷ったら、
元の英語を思い出して、それに倣ったアクセントでおいてゆけば、
異論は無いはず。すべてがすべてではありませんが。
そう、すでにNHKのアクセント辞典さえ取り残されています。
上の方程式を使えば、丸暗記ではなく、
臨機応変の対応が出来るでしょう。
がんばれにっぽん、がんばるにっぽん、がんばるわたし、なのですね。
『ナレーションのいろはを知りたい方・
今よりスキルアップしたい方・
控えた仕事をより満足できる作品にしたいと思っている方』、
どのような目的にも必ずお応えできる、
そんな教室が、
ここ、スタジオ1093ナレーション研究室です。
まったくの初心者から、現役プロの方まで、
大歓迎です。
どうぞ、無料体験・見学がてら、
原稿を持って遊びにいらしてください。

文章の中から、 まず、 格助詞、“が”、“は”、“を”、“に”、を 見つけだそう。
読点が打たれているか打たれるべき、“が”、“は”、“を”、“に”、であることが重要である。
“が”、“は”、の前には、主語である、名詞あるいは名詞節が、
“を”、“に”、の前には、目的語である、名詞あるいは名詞節が、
そう、“が”、“は”、“を”、“に”、の前には、
必ず名詞あるいは名詞節、体言が控えているのだ。
そして、その名詞・名詞節の前には、形容詞が待ち構えている。
初見力を支える読解法とは、まず形容詞を見つけることだと説いてきた。
一見、形容詞に見えないようなものに気づく力を養うことでもある。
見つけた形容詞・形容詞節に余計な読点をはさまない。
それこそが、揺るがぬ節を置いてゆくの所以である。
そこで、次の作業は、形容詞のカウントに入る。
これで、もう文章デッサン、文法デッサンができたも同然。
主語・目的語としての名詞が、固有名詞か、限定名詞か、
あるいは普通名詞かで、形容詞の カウント方法が違ってくる。
普通名詞である場合は、カウントした数の最終形容詞を、
トーンを上げて強調・訴求することになり、
それ以前はマイキー・ イメージング訴求の表現。
固有名詞・限定名詞の場合には、全てがマイキー・ イメージング訴求ということになる。
これで、オクターブ幅の広い、音色豊かな喋りのセッティングが成立するのだ。
音だけで語る一色のしゃべりほど、心に響かないものはない。
耳にではなく、心に届く語りが求められている。

しゃべるという行為とは、一体どういうことなのだろうか。
しゃべるときには必ず、聞くという行為が伴うはずである。
まったく対象無しに人がしゃべることはない。
一人だろうが、大勢だろうが、直にだろうが、マイクを介してだろうが、
その先には必ず、聴く対象がいる。
とすれば、しゃべる、聴くは、一対の行為なのだ。
しゃべる、という行為は、音源である声帯を震わし、口の中で母音を形成し、
口先で子音を創る。
その音波を鼓膜というアンテナで捕え、その信号は、日本語言語中枢という
ブラックボックスに送られ、瞬時に解析し、理解の分野に届けられ、認識されることになる。
そのブラックボックスとは、日本語文法、語彙を、長年かけて集積してきた、
スーパーコンピュータである。急ごしらえのデジタルコンピュータがかなう相手ではない。
なのに、ナレートするとき、視覚で捕えた文字情報を、
チープなコンピュータを持ち出して音声変換しようと必死になる。
文字の音声変換イコール、ナレーションではない。
そのとき、しゃベるという行為からかけはなれた、
読みモードになっていることに気がつかなければならない。
読むことイコール、ナレーションではないのだ。
読みモードの朗読のなんと退屈なことか。
読みモードのナレーションのなんと難解なことか。
読むという行為と理解は同義語ではない。
そのとき、往々にして単語の羅列が始まる。
人は単語を聞いて理解しようとはしない。
大きなところでは、センテンスの色を把握して、ストーリー展開を探り、
小さなところでは、"節"を聴いて、センテンスの構築を理解する。
読点で区切られた"節"を認識しながら、一回性のしゃべりを、リニアに理解してゆく。
そのとき、その"節"を認識する分野こそが、日本語言語中枢である。
そのスーパーコンピュータは、主語につく格助詞、"が"、"は"に読点がつけば、
それを主語と認識し、読点がつかなければ、"形容詞節"、"副詞節"の中のものだと、
瞬時に分別する。
ワンセンテンスの中で、複数の"が"、"は"に読点がつけば、
言語中枢は混乱モードに陥り、思考停止状態にさえなりかねない。
我々は、日本語におけるネイティブスピーカーであると同時に、ネイティブリスナーでもある。
日本語言語中枢を介した、インプット行程が聴くということであり、
アウトプット行程が、しゃべるということである。
とすれば、わかりやすく心地よいしゃべりとは、聴くという行為、
つまり日本語言語中枢の機序にかなったものでなくてはならない。
人の言語中枢の、理解における最小単位は"単語"ではなく、
"節"なのだと前にも言った。単語一つ一つ追っかけていたのでは、
人のしゃべりに到底ついてはいけない。
日本人が、英語のネイティブスピーカーについていけないのと同じである。
英語は単語で形成されているのではなく、"節"で構成されている。
一塊の"節"を理解の最小単位として、ヒアリングしているのだ。
英会話スクールで、ネイティブの先生に必ずこういわれる。
『単語で覚えるのではなく、"成句熟語"として捉えるのです』
貧弱なボキャブラリーで、単語ごとに聴こうとすれば、
ネイティブのしゃべりについていくことは到底できない。日本語も例外ではないのだ。
とすれば、喋りが、聴くという行為と一対であるのだから、しゃべりも同じように、
"節"単位を最小としなければ、正確に理解してもらうことは期待できない。
"単語"を"形容詞"を"副詞"を、一生懸命説明しているようなしゃべりは、
"声は聞こえど中身は見えず"になりかねないのだ。
お分かりだろうか。わかりやすいしゃべりとは、読点で区切られた《揺るがぬ"節"》を
明快においてゆくことであり、"読点"とは、そこで区切られた"節"がなんであるかを
認識してもらうために必要な時間なのである。
だとすれば、"一形容詞節""一副詞節""一名詞節"が見つけられた場合、
その中で余計な読点を打たないことだ。
逆に、"節"ごとには、正確に読点を打たなければならない。
これはあくまで原則論であり、心地よい語尾、助詞を置いてゆくことが出来れば、
ワンセンテンスノーブレイクでもかまわない。
読点を打たなくても、正確な"節"の見えるしゃべりであれば、である。
"単語" そのものに意味があるのではなく、"節"がどのようなイメージで語られたかが、
理解を促すのであって、先に述べた、人のしゃべりとは、常に、二元表現であることの
証左ともなろう。
"形容詞節"、"副詞節"、 "名詞節"を見つけることが、
文章読解の第一歩であることの意味がお分かりいただけただろうか。
日本人である以上すべからく、そのスーパーコンピュータを持ち備えている。
それを信じて、日本語言語中枢にかなったしゃべりを身につけようではないか。




